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雲仙島原の名水

こんにちは。

わたくし達、長崎県島原市と言えば最初に思い浮かべるのは島原の乱における一揆軍最高指導者、天草四郎時貞ではないでしょうか。
この乱により島原城は、江戸時代に築城された近世城郭で、実戦を経験した数少ない城の一つとなりました。

今現在でも島原城付近には武家屋敷が残っていたり、当時一揆軍が立てこもった原城跡、安山岩の自然石を使った、非常に珍しいキリシタンの立墓碑、まだれいなの墓(クリスチャンネームで、女子信者につけられたもの)などなど歴史的な生の資料がいくつも残っております。

このBLOGの筆者、私(たまらん堂三代目の弟)は島原城近くの島原高校出身のため学生時代には学校行事として定期的に島原城の掃除を面倒くさがりながらしていたのを思い出します(笑)

たまらん堂の有明町は島原城から少し離れた田舎町、農業、畜産、漁業などが盛んな町です。その中でも雲仙普賢岳の麓に位置します。

小さい頃は毎年、年明けに初日の出を見に親父(二代目現社長)と普賢岳に登っていました。
しかし忘れもしない1990年11月17日の土曜日。
私が小学生の時です。土曜日は図工の時間が2回続くので大好きな日でしたが1回目の図工の時間と2回目の図工の時間の間の休憩中、親友のコウキと共に運動場で遊んでいた時でした。
コウキ「あら〜山の燃えよる〜」
わたし「ほんてーあら山火事ばい…先生に言わんぎらダメやろ〜」
すぐに先生に言って町役場に問い合わせ。その後の回答で普賢岳が噴火しているということを知らされました。
当時子供としては漠然とすぐに消えるだろう程度に思っていましたが、うちのばあちゃん(現会長婦人)は普賢岳のことを日頃から守り神、普賢様(サマ)と呼んでおり、当時、普賢様が怒っていると言っていたので、子供ながらに怖くなりました。
そして火山活動が進みにつれ大火砕流や土石流の大きな被害を受け人々は不安に陥り1996年6月3日噴火活動終息宣言まで生活は脅かされました。

しかし島原のモンは強いのです。『がまだす(頑張ろう)』を合言葉に人々は立ち上がり今現在では町も少しずつ復興してこの災害を忘れないということで『がまだすドーム』が建てられました。

たまらん堂の鶏達には守り神、普賢岳から流れ出る、名水百選の地の恵み『雲仙島原の名水』を与えております。

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